ヴィパッサナー瞑想法掲示板スレのまとめ。「頭は3週間で良くなる」にも通じる知覚、身体感覚を鋭敏化させる瞑想法。ヴィパサナ瞑想的脳力開発法。
http://makimo.to/2ch/etc_psy/1062/1062907375.html
マハーシ方式では、一瞬一瞬の変化に気付くためのテクニックとしてラベリングを使いますね。
初歩の段階だけのテクニックとして指導されているようです。
思考のプロセスに気付くのには便利ですね。
ただ、集中のための補助的手段と考えるべきで、アウェアネスとは直接は関係しないような気もします。
アウェアネスのためにはラベリングしないほうが効果的だという人も少なくないですしね。
日本で、10日間で瞑想による効果を期待するなら 地橋所長のとこでしょう。
値上がりしましたが。
あとは一応、完全沈黙のダンマバーヌが次でしょう。
個人的に。
ダンマバーヌくらい徹底した修行体制で、マハシ式をやれるとこがあればと思いますが。
いわゆるラベリングをしないゴエンカ流では、最初はマハーシ流(?)以上に 悩まされますが、まったくラベリングせずに思考を観察することができるように なってくる、と俺は実感として思う。
たとえば「腹減ったなぁ」と思ったら、「空腹感」などとラベリングするわけだよね? だがそんなことせずとも、ただ見つめることにより、後半ではこの俺でも 「腹減っ」まで思考したあと自然に末尾が切れ尻切れトンボになっていく。
わかるかな? さらに「腹減」になり「はら」「は」になり、ついには思考が発生した瞬間に消える。
ようになる。
まじで。
まぁ、そんな状態はほんの一瞬しか維持できないんだが、確かにそういう境地は あった。
もしラベリングをし、そのくせがつくと、はじめは実況中継によって思考を観察するのが 容易かもしれない。
だが後半はどうかな? と、そっちをやったことがない俺は思う。
ヴィパッサナを修している方で、ラベリングをしたり、 サテイを入れる事により気づきが本当に養成されるのか? されるのだとすればどのようなメカニズムなのか? この辺をきっちりと説明できる方がいれば良いと思います。
ラベリングをやめれば妄想は噴出してくるので、まるで根はそのままで 枝を剪定しているに過ぎないのではないかと思いたくなるのです。
ラマナ=マハリシは呼吸に対し気づく瞑想法はこのような弱点があると 書いております。
↓
白い炎さんの言っているラベリングに対する疑問は クリシュナムルティ読んできた人間なら当然感じる疑問で、 私も最初、まったく同じ疑問をもってマハーシメソッドに取り組みましたが、 その疑問は、ある程度実践した時点で晴れますよ。
ここで、これ以上そのことを説明しようとは思いませんが、 Kの「言葉なし選択なしの受動的な観察」につながる道としては マハーシメソッドはとてもよく考えられた技法だと思いました。
あと、マハーシメソッド=ラベリングという理解(や批判)をよく目にしますが、 「マハーシメソッド=ラベリング」ではないですね。
普通の意味でのラベリングなしのマハーシメソッドもあり得るし、 修行工程では、ラベリングを入れれないし、また入れるべきではない
局面も出てきます。
「マハーシメソッド=ラベリング」というのは、あくまでも修行前半部分での話です。
だから、ラベリング使用を持って、マハーシメソッドの批判はできないと思います。
まともな指導者なら、ラベリングの弊害も欠点も分かったうえで、 ラベリングという補助器具(杖)を使用することを選択しているのだと思います。
地橋さんは月刊サティのなかで、マハーシ でうまくいかなかった人で、別の(ラベリン グなしの)ヴィバサナを体験して初めてセン セーションが鮮明化したという人の体験を
紹介しています。
そして、「単調にラベリングを繰り返すとマ ントラ効果が発生し、狙いどおり快感ホル モンの分泌に陶酔する結果を得るだろう」
と語り、「ラベリングは心の随観には不可 欠だが、身随観では神経質になることはな い」と結論しています。
マハーシ・システムでも「努力の95%はプ ロセスを直接知覚することに向けて、残り の5%をラベリングに向けるべき」だと言 われています。
地橋さんによると 「関心がラベリングに傾けば、いかに認知するか、 どういう言葉でラベリングするかなど左脳中心とな り、知覚力をさらに先鋭化していく集中の仕事はお ろそかになっていく」 のだそうです。
身随観と心随観を段階的に分ける必要はないと思う。
今現在の自分を意識してみればいい。
身と心は、どちらも進行しているでしょ。
どちらか機能停止してますか? その瞬間に一番感度が強かったことを気づきとして意識すればいいと思う。
妄想をしない思考もしないでも、忙しいく脳を動かし続ける。
だんだん、言葉でのラベリングに限界を感じてきました。
即座に言葉ではフォロー出来ない心身の出来事にはどうしたらいいでしょうか? スマナサーラ式からゴエンカ式に移行する段階なのでしょうか?
ただ気づけばいいという段階にはまだ遠いです。
脳の言語野を全くフリーにしておくのも不安です。
↓
最初からゴエンカ流の俺には、そんな悩みは無縁でした。
たしかに最初はラベリングがないゆえに妄想や思考にとらわれやすいのかもしれません。
でもあなたのこういう書き込みを見ると、やはりゴエンカ流でよかったなぁと思いますね。
最初の10日コースでさえ、ラベリングなどせずとも「ただ感じる・ただ観察する」ことがある程度できるようになりましたし。
スマナサーラ長老のお話や本、マハーシ流のメソッドは上座部やヴィパッサナーに対する理解や考察を深めることには大変役に立ちますが、こと実践となるとゴエンカ流がいいと、俺は思いますね。
↓
いつの間にか独り言の妄想なり空想にハマっていることは無いのですか? また、いつの間にか雑念をイメージしていたりとか...。
ゴエンカ式は集中力の連続状態でかなり苦しそうな印象があるのですが... 実際的には、集中力の連続ではないのですか?
↓
そんなのしょっちゅうですよ。
でもほんの瞬間、一分間でも、確かにそういう雑念が 止まる時があります。
大事なのはそれを長く保てるようにしていくことだと。
いちいち「雑念」とか「音」とかラベリングはしません。
ただ音が聞こえている、雑念が 湧き上がった、それを観察するのです。
せっかくだから雑念についてもう少し。
たとえば「おなか減ったなぁ」という雑念が沸き起こります。
あいにく俺はラベリング流をやってませんが、きっと「雑念」とでもラベリングするのでしょう。
ゴエンカ流では、何もしません。
ただ観察するのです。
その結果
「おなか減ったなぁ」「今日のお昼は何かな?」と雑念に捕らわれることももちろんあります。
ですが集中力が際立ち観察が出来ていれば、たとえ湧き上がっても「おなか減っ・・・」 「おなか・・・」「お・・。
」と、その雑念ですら最後まで沸き起こらず、次第に消えていきます。
集中力というのはひとつの方便で、目的はきばらずただ淡々と観察することにあるんですね。
そういう意味では苦しくはありません。
いわゆる「立っての瞑想」「歩行瞑想」というものは、ゴエンカ流では特に定義されていません。
特別の時間もありません。
というのも、体を動かすのはその動きに気をとられ、純粋に観察することが苦手な初心者にはむしろ難しいと思われているのです。
歩行中は足の裏の感覚などに注意を払うように言われますから、そういう意味では「歩行瞑想ラベリング抜き」の指導もされているわけですが。
基本的に、一番長時間座ってられる姿勢を作ったら「絶対動かない」。
これがゴエンカ流の特色かも。
正直しんどい。
痛くてそっちに気をとられ、瞑想どころではありません。
その点、そちらはゆっくりとなら動かして良いそうですね。
ちょびっとうらやましいかも。
ゴエンカ流でもどうしようもなくなったら動かしても文句は言われませんが、集中が途切れる原因になると注意されます。
マハーシ式でも座禅については、体は動かすべきではありません。
だんだんとそう言う指導が入ります。
ヴィッパッサナーは知慧開発されていかないと意味がありません。
マハシをしっかりやる方が洞察力は鋭くなります。
レディーセヤドー=ゴエンカ流のながれは、その点で、経験上、出にくいように思われます。
自分はまだ教えてもらえないけど、ラベリングの言葉をひとつに決めてやる方法が 有るようですよ。
例えば、ラベリングは全て「ブッドー」とか「アラハン」に 決めておいて、何が起きてもブッドーとラベリングする。
そうしないと、たぶんカニカ・サマーディは起きないと思ふ。
↓
カニカ・サマーディの別名は解脱でいいんですよね。
↓
カニカ・サマーディは、瞬間定っていうらしい。
スマナサーラ式→マハーシ・システムのこと
ゴエンカ式 → アーナーパーナ・サティ・スッタ=安般守意経= 出る息・入る息の気づきの教え
スマナサーラ長老の紹介している ヴィパッサナー瞑想はビギナーレベル・ビギナーコース という印象があるから もっと深めていきたいと思う人たちはゴエンカ氏のところへ
行くことになるんだろうね。
余分なことは何一つしたくない思っている人たちには グリーンヒルが向いてるのかなぁ
ゴエンカ流のヴィパッサナーやればいいんじゃないかい アナパナ瞑想(呼吸を観察する)=集中力を養う ヴィパッサナー瞑想=純粋観察 アナパナ瞑想やって後ヴィパッサナー瞑想をするが、集中力が途切れたら随時アナパナに戻るようになってるから。
ブッダの瞑想法―ヴィパッサナー瞑想の理論と実践 (地橋 秀雄)
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ミャンマーの瞑想―ウィパッサナー観法(マハーシ長老)
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