ヴィパッサナー瞑想法掲示板スレのまとめ。「頭は3週間で良くなる」にも通じる知覚、身体感覚を鋭敏化させる瞑想法。ヴィパサナ瞑想的脳力開発法。
http://makimo.to/2ch/life7_psy/1116/1116406687.html
私目、ごゴエンカさんとこの10日間コースに参加させてもらったことがあります。
今は、どちらかと言うと、テーラワーダさんとこの方式をメインに瞑想してます。
さてここで、両者の大きな違いはと言いますと。
ゴエンカさんとこのは、アナパナ(これはひたすら自分の呼吸に集中する)からはじまり。
これで集中力をつけたら、ひたすら身体の観察、ヴィパッサナーに入るというものです。
何も考えず、 頭の先からつま先まで、常に意識を張り巡らせ観察し、そして身体に感じた感覚は、
この感覚は好き、この感覚は嫌い、などの主観は一切入れず、ただただ、ひたすら、客観的に観察するというものです。
一方、テーラワーダさんとこは、まず、呼吸に関連するお腹の、膨らみ、縮みに対して常に実況中継を入れ、 雑念が起これば、雑念、雑念と、実況中継を入れ、音が聞こえれば、音、音と、実況中継を入れていく。
それで雑念などが収まれば、また、お腹の膨らみ、縮みの実況中継に戻る。
ま、テーラワーダさんとこのは、常に気付き(サティ)を入れていくというものでしょうか。
これは、瞑想の最も重要なテーマの一つである、思考を止めるということに、大変有効なものだと思われます。
なにせ常に実況中継してるわけですから、余計な思考、考える暇がありませんものでして。
まぁそれでも雑念、妄想は沸いてきますが(苦笑)
またテーラワーダさんとこでは、歩く瞑想、立つ瞑想、食事の瞑想なんてのも指導されます。
これも常に実況中継を入れていくわけでして、例えば歩くときは、右足をあげる、運ぶ、下ろす。
次に左足を上げる運ぶ、下ろす。
と、実況中継をしていき、立つ瞑想は、まず手を組む時は、手を組んでいる様子を実況中継し、 立っている時は、今私は立っている、足に感じる感覚を、感じています。
立っています、感じてますと、実況中継を入れる。
食事の時は箸を運ぶ、掴む、運ぶ、噛む、味わっている。
などと常に実況中継、常にきづきを入れていくというものです。
これらの瞑想をする時は、身体の動きをスローモーションでおこないます。
ふだん我々は歩く時にでも、無意識に足を運んでいるように思われますが、しっかり潜在意識が働いており、 この常に実況中継、つまり常に気付き、サティを入れていく手法は、普段無意識でしている事でも、実は潜在意識が働いている
という智慧を養うにはいい手法なんではないかと思います。
このように両者では、同じヴィパッサナーといえども、大きく手法は違うと思います。
どちらかというと、ゴエンカさんのところでは、お腹の膨らみ縮みの実況中継は、ともすればサマタ式の瞑想になるので、 否定的なんではないでしょうか? 個人的にはどちらが良い悪いではなく、座る瞑想にて、方法論はともかく、
思考を止め、集中力を養えれば、身体の観察に入り、体の感覚は生じては滅するものだと知り、身体の無常を知り、 また、心の観察により、生じては滅する、心の無常を知り、身体の感覚に対して、ただ客観的に観察し、 潜在意識が反応反発、好き、嫌いという条件付けをするということを辞める。
また、実況中継により、自分の心(表層意識)の動きに対して
客観的によく観察し、これも潜在意識が、反応反発、好き、嫌いの条件付けを辞める。
このような心の状態を作った先に、ゴールがまってるんだと確信しています。
この表層意識は、 潜在意識が大きくかかわっているのは間違いありません。
個人的な観想ですが、アナパナで、雑念、思考を追い出すのは、非常に難しいです。
これはこれで、意図してそのように指導されておられるのですけど。
これは10日間コース取られた方ならよくわかると思います。
また、この妄想、雑念、思考を取り去るのがいかに厄介で、 難しいのかもよくわかるでしょう。
ま、アナパナで余計な思考を取り去り、集中力を養えれば理想は理想だとは思いますが。
ま、興味のある方は一度行かれてみればと思います。
ゴエンカさんの所
http://www.jp.dhamma.org/index.html
コース日程
http://www.jp.dhamma.org/ns/dates.html
ここの運営は、全てボランテァで行なわれており、かかる費用は、古い生徒さんからあくまで本人の自主的な意思に 任せられた布施でまかなわれており、新しい生徒さんのかかる費用は、原則、一切かかりません。
最終日に、布施の受付らしきコーナーが設けられますが、これもあくまで、生徒自身の気持ちの問題で、 強制などは一切ありません。
ま、だからと言って、なにもしないのは、法を理解していないし、そのような人は得るものは少ない
のではないかと思います。
やはり多くの人は、多かれ、少なかれ、布施はしていました。
ここのシステムは、本来の布施の姿だと思うのですが、驚くことにこのシステムで、ずっと運営してきているということです。
この日本では驚きではないでしょうか?ただの集金システムに成り下がっている、どこかのカルトは見習ってほしいものです。
それと、この10日間コースは、日本だけではなく他の国でもやっているそうですが、
いずれも、同じようなシステムで運用され、それでいて、仏教発祥の地、インドにて、大変立派な瞑想センターが出来上がって います。
ここも、誰でも参加でき、原則費用はかからないそうです。
あの金ぴか、飾り物などの装飾は少し疑問におもえたが、とにかく外観、規模的にも、大変素晴らしい。
営利ではやらずに、ただ人の為にやる。
それであの建物、あの発展。
これぞ法が働いているというものではないかと、
ビデオをみて、強く思ったしだいです。
あと、ここの素晴らしいところは、宗教臭さが微塵も感じられないところです。
自分達のは宗教ではないと 認識しているようですし、 参加者はキリスト教徒であろうが、イスラム教徒であろうが、他の宗教的な仏教徒であろうが、歓迎されます。
神を捜すのが目的で参加されるのもOKだそうです。
彼らにとって神とは、法であると言っていました。
ただ、コース期間中は、祈り、念仏、ロザリオ、数珠などの宗教的な行為、携帯はゆるされません。
そこのところがまたいいと思います。
ただ瞑想は思ったよりきついもので、座っているとすぐに、雑念、妄想、そして楽を求める渇望と発展していき、 人によっては耐えられないもののようです。
なにせコース期間中は、一日の大半は、瞑想、座ってるわけですから。
事実、僕が参加したときも、男子で、6名ほど脱落者がでました。
5人はコース途中でリタイア、1人は、一応座っても、5分と座ってられずに、ひざを組み、自由瞑想の時間は、部屋で
寝てました。
いずれも彼らをよく観察すると、自主瞑想で、部屋で瞑想している時は、なんと聖なる沈黙を破り、 隣で瞑想している人がいるのに、仲間内でひそひそ話。
瞑想ルームで皆が瞑想しているのにかかわらず、出て行くときは、なんら気を使うことなく、 平気でどたどた足音をたてて出て行く。
部屋では、皆の邪魔になるのに、自分の荷物は部屋の真ん中に、置きっぱなし等。
要は、このリタイアした連中は自己中なんです。
するとおもしろいことに気付きます。
自己中な人は、瞑想時にわいてくる、雑念、妄想、そしてやってくる渇望に心が支配され、 同じ所にじっと座っていることにも耐えられなくなってくるのでしょう。
自己中心的な彼らは、自分に生じてくる渇望を、追い出す事ができないのです。
これは面白い発見でした。
ま、参加を希望される方は、ある程度の決心がなければ、この10日間はただつらいだけの、無駄な時間になりますので ある程度の決意は必要だと思われます。
ま、極端に自己中心的な精神の持ち主ではなく、 普通に精神面が育っている人なら、なんら問題なく乗り切れ、なんらか得るものがあると思います。
あとテーラワーダ式を学びたいのなら、ここ。
http://www.j-theravada.net/8-yotei.html
ここの初心者マークの付いた瞑想会は、初心者向けの指導を受けられます。
ただ、個人的な感想ですが、指導は、比較的しっかりしたものでよかったのですが、某長老の話は正直???でした。
長老の話は、そこそこに、もっと瞑想に時間をおいてほしかったです。
参加費は、初めての方は、原則、出すも出さないも本人の気持ちしだい。
まぁだしても平均2千円ほどだそうです。
あとここも一度行ってみたいのですが、いわゆるテーラワーダ方式で10日間合宿もやってるところ。
http://www.satisati.jp/3-3page.htm
ヴィパッサナーは、『純粋観察』ともいうべき瞑想法。
一方禅などのサマタは、心を一つの対象に釘づけにし、主体と客体の合一状態を目指す瞑想。
詳しくは、http://www.satisati.jp/2-1-1page.htm
常に身体、心を観察するヴィバッサナーとは違い、禅などのサマタ方式では自他一如などのサマーディは得られても、 生滅智、壊滅智、行捨智、そして在果定、出定、一来道果まで進み、不げん道果、阿羅漢道果まで 行き着くには難しいと思いますけどね。
ちなみに釈迦は、念住経においてこのヴィバッサナー、つまり念じる修行の事を、「唯一の道」と言っています。
アーナ・パーナ・サティ(安奈般奈念→略して安般念)
アナパナを本当にやろうとしても初心者にできないんだよ だからマハーシ・サヤドウが、アナパナを お腹の膨らみ縮みの観察にアレンジしたんだよ
>グリーンヒル瞑想研究所
>http://www5b.biglobe.ne.jp/~satisati/
ここを主催している地橋という在家の人が、新宿の朝日カルチャーセンターで ヴィパッサナ瞑想の講師をしています。
僕はそこに出たことがあるけど、ひとりで喋り捲る「おれが、おれが」という 感じの人だった。
歩行瞑想をしているときに、「俺たちは凡夫じゃないんだー」とかわけのわか らないことを口走っていました。
受講生が雑念にとらわれているのが、見ている だけでわかると言うことで、叱咤していたらしいのですが。
座って瞑想した後一人一人に感想を聞き、ヴィパッサナの考えにそぐわない答え
をする人がいると、あからさまにいらつきます。
たとえば、「頭が明るくなった」 とか、ヨガ風のことを言う人は嫌われます。
だいたいそんな感じで、あまり尊敬できる人ではないと感じました。
↓
私は地橋先生の所で瞑想会に参加して一年ですが、 貴方の受けたような印象は、ただの一度もありませんが・・。
商売どころか、ほとんど奉仕で来るものに指導してくださってる方ですよ。
たくさんの実績を持たれてますが、そういった話されることも少なく、 ご自分はあえてインストラクターという立場で私達に接してくださってます。
ヴィパッサナーは、先入観をなくして奇麗な心で、本質を観る修行です。
少なくとも貴方はヴィパッサナーをされてない方ですね。
せめて慈悲の瞑想からでも入られたらいかがでしょうか。
本当のこというとね、ヴィパサナという瞑想「方法」があるわけじゃないし、 このスレで出てきている上座部のやり方だけがヴィパッサナというわけでもない。
私が観るに、現代において もっともヴィパッサナを的確に描写しているのはJ.クリシュナムルティですね。
グルジェフの自己想起もヴィパッサナです。
もちろん禅の修行もそこにたどり着く。
ラジニーシは好きなんだが、いかんせん弟子たちがあほすぎる。
ゴエンカ方式はやっぱりヤメることにした。
身体の中を観察するのにどーーーしてもイメージを作ってしまう
イメージを絶対作らせないマハーシシステムの方が堅確だな
ヴィパッサナー修行のポイント 1 五根 修行の根本となる、信、精進、念、定、智慧の五つの要素が平等に働き合うようにする。
(根とは、能力のこと。
)
●信 心を澄ませる。
信頼。
自分の自由で正しい判断によって何かを信頼したり信じたりすること。
●精進 勤め励むこと。
●念 明瞭な意識、注意力、自覚。
サティ=気づき。
不放逸=心に維持すること。
●定 精神集中力。
雑念に追われた心を一定の対象に集中させ統一させること。
●慧 真実を明らかに理解すること。
真実を見抜き疑惑を解く心の作用のこと。
補足
・「信」が強く「智慧」が弱いと、つまらないことも信じて頼りにしてしまう。
・「智慧」が弱くて、「信」が浅いと、選択が多くかなり進歩しても満足しなくなる。
・「定」が強すぎると、精神状態が落ち込み卑屈の原因になる。
・「精進」が強すぎると、安定性がなくなり把握できない。
・「念」については、強ければ強いほど良い。
感情の移り変わりが速すぎてラベリング が追いつかない場合はどうしたらいいんでしょう?
↓
わたしなら そういうときは、感情に気付くことをメインにしながら 「観ている」 感情の変化について「知っている」「移り変わっている」 あるいは、その感情にともなう肉体的な感覚にobjectを移し
「感じている」(そのとき肉体の感覚) という風にします。
「感じている」の場合は、マハーシ式とは少し違う方式の要素が入りますが。
あるいは、混乱してるなら、「混乱している」または、しばらく「待ちます」
地橋氏的応用すると、もう思ってしまっている段階なので (感情の移り変わりが速すぎてラベリングが追いつかない)「と思った」 と「と思った」というラベリングするかもしれませんね。
↓
一番大きな感情だけラベリングして、他は全部見送ったらどうでしょうか
あるいはラベリングは諦めて、その時の中心対象にすぐ戻るとか
基本的なことをおたずねしますが、サティを入れるためにラベリングをしていると 理解していましたが如何でしょうか?
↓
それは違います。
サティを入れるためだけなら、むしろラベリングは邪魔になります。
ラベリングは、まだ本格的なサティが出来ない人のためのものです。
むしろサティ以前の段階ではないでしょうか?
↓
ラベリングなしでもサティが入ればラベリングがなくてもいいということでよろしいでしょうか ↓
はい、ラベリングはいりません。
体のサティはヴィパサナの第一段階にすぎないわけで、次に感情のサティに 進むのは普通です。
地橋の特徴は、かなり早い段階で感情のサティを教えるところにあるとはいえ るかもしれない。
逆にスマさんは、いつまでたっても体のサティばかりだね。
ヴィパサナ瞑想って,要は自己観察とか想念観察といわれてるものと同じでしょ? それが分かってからは,わざわざ座って瞑想するのはやめて,日々の生活の中で実践 しています。
↓
もちろん、日々の生活の中で実践出来ればそれが一番いい。
でも、はじめからそれが出来る人間はいないと思う。
だから、それが出来るようになるために座って瞑想してるんだよ。
釈迦でさえ、はじめは座って瞑想していた。
チベット仏教のゾクチェンの教えでは,ヴィパサナ瞑想的な 内容が,もっと深く書いてある気がする。
元を辿れば,同じ仏教だろうから当然といえば 当然とも言えるけど。
↓
問題はゾクチェンで教えているような境地に、いかにして入るかということな んです。
チベット仏教においても、ヴィパサナ瞑想を最高の修行法としています。
心を落ち着かせて雑念が取り払われた状態でもう一度心の中を観察してみると、 自分自身がどこにも居ないような不思議な感覚を覚えた (以後、そういう状態に慣れてしまったせいなのかどうかは分からないが、 不思議な感覚としては現れなくなってしまった)
脳内で音楽のメロディーの繰り返しが止まらなくなって発狂しそうになったが、 腹式呼吸に集中することでなんとか克服できた。
ここでは上記の経験とは逆に 自己のコントロールが効かない、勝手に動く心→自分の体が自分でないような 感覚を覚えた
↓
これって、ひょっとして「有身見」についての気づきじゃねーか? 「有身見」とゆーのは、この心や身体は私のもの、この心と身体が私です。
とゆー錯覚、妄想の事
脳内の雑音(妄想)が減るから、勉強や見聞きしたことに関して 記憶力は上がるし、後になって記憶を引き出すときも妄想に邪魔され にくくなる。
食事で噛むとき「噛んだ、噛んだ・・・」ってゆっくりしかできないけど やってたら恐ろしいまでに自分と目の前が立体的になり 体が熱くなった でもなんだか怖い、怖いくらいに現実感みたいな、 目の前の生命感あふれる空間があらわれ おもしろいけど鳴れないので元通りになっちまう
毘鉢舎那瞑想中に、 十数メートルほど離れた周囲の木々で鳴いている多くのセミの中のたった一匹のセミの鳴き声が、ググーッと耳元までクローズアップされて、 そのたった一匹だけの鳴き声が明瞭に識別できることがある。
まさに、その音だけが耳元まで飛び出してくる感じ。
オイゲンヘリゲルの本や、バイアスロン選手の話の中に、視覚の世界で似た話があり、集中力が高まると聴覚でもこういうことが生じるのだ なと思った。
瞑想中はそのほか、いろんな変わった体験をする。
私の場合、多くが恐怖を伴う体感異常体験だったりする。
でも、すべて単なる感覚でゴミ。
どれもサティしていくしかない。
きちんとサティできることは少なく、ほとんどは、サティを入れる練習をしているにすぎない。
しかしながら、とにかくこの練習するしかないと思い知らされる。
なんか子供の頃、鉄棒で逆上がりの練習してたときを思い出す。
逆上がりをやってるんじゃなく、逆上がりができるように練習しているような感じ。
サティを入れるのも同じで、ほとんどはサティが入れられるよう一生懸命にサティの練習をしているのだ。
これは、サティがちゃんと入れられた体験をして始めて気づいた。
私の場合、嫉妬の感情にサティを入れた瞬間に訪れた。
この体験後、 毘鉢舎那瞑想の世界はすべて自ら体験でき、自ずから解ることもわかった。
お経にあるとおり、自ら実践でき、自ら知ることができる。
たぶん、悟りもこの延長上にあると思った。
自ら悟ったとわかるんだなと。
自分がサティできているかいないかは、他人に聞かなくても自ら解ること。
これが解らないうちは、こんな瞑想やっててホントにいいのかと思ったりした。
とにかくサティできた瞬間が掴めれば、「ああ、こういうことか」と解る。
まずは、とにかくも精進して頑張るしかない。
逆上がりが出来るためには、とにかく出来ろようになるまで練習するしかないのと同じ。
アナパナについて一度こーゆー↓マニュアルをじっくり読み込んで から、呼吸の観察をすれば?
「パオセヤドー法話集」の中の「如実知見」
http://www012.upp.so-net.ne.jp/asia21/tikenmokuji.htm
↓
第四禅に入ってから観禅(ヴィパッサナ)が出来ると書いてあるね。
お腹の膨らみ縮みに注意するのもマハーシ式。
伝統的には呼吸ですよね。
でも伝統方式では、まずヴィパッサナーの前にサマタ瞑想で十二分に集中力を養う段階から始めます。
そのサマタ瞑想は、良き指導者抜きで独学では危険が伴う。
そこでマハーシ長老が、まず呼吸ではなく初心者でも楽に集中できるお腹の動きを導入した。
また、ラベリングによってヴィパッサナーしながらサマタにも成っており、かつ危険性も少なくなった。
お腹の動きも結局は呼吸によるものであり、集中した段階では、呼吸もお腹の動きもどちらも ひとつに収斂されること。
よって、マハーシ方式でも伝統方式でも行きつく先は同じ。
いわば、マハーシ方式は初心者でも比較的安全に瞑想できる手法を広めた。
というような趣旨のことをミャンマーのお坊様から伺った。
(ちょっとうろ覚えですけど) わたしも、伝統方式が良いのか、マハーシ方式が良いのか、またほかにも 方法あるとのことだったので、どれが良いのかわからなかった。
そこで相談したときの回答がこれだったです。
↓
お腹の膨らみ縮みは呼吸でしょう。
伝統通りのアナパナ瞑想ですよ。
呼吸を見る場合に、お腹の感覚(動き)を見る方法と、 鼻の感覚を見る方法があります。
スマさんは前者の方法ですね。
スマさんはサマタ瞑想の指導はほとんどしません。
本人の独 習にまかせていますね。
他の流派との違いは、呼吸を見る瞑想の部分をラベリングを使うこと によって、ヴィパッサナーしながらサマタにも成るようにしているところ でしょう。
こうすることによって、あえて前段階のサマタ瞑想をする必要をなくし
てるんでしょうね。
呼吸の観察って言ったところで結局は 上唇うわくちびるの上、鼻の下に注意集中してるだけでしょ 出息入息の観察になってないんだよ実際のところ だからマハーシ長老が、腹部の観察を始めたんですよ
↓
呼吸の観察は単に鼻先に意識を集中しているだけではありません。
出息入息を明確に追っていくものです。
これは集中力を必要とし、ある程度熟練を要します。
よって初心者はまず鼻先を通る呼吸の出入りを感じることから
始めるということです。
↓
そのへんは流派や団体によってやり方が違う。
鼻孔の感覚に集中するのもある。
息を追いかけていくやり方のところもあるしね。
マハーシ式でなくても、腹部の観察をするところは多いよ。
呼吸の観察で、腹部を観察するのは普通じゃないの?
マハーシ式の指導者でも、「鼻のほうが感じやすければ鼻でもかまいません」 と指導する人もいるよ。
要は呼吸のサティなのであり、観察する場所は問題ではないと思う。
ラベリングの場合は言葉にとらわれや すいんじゃないかな。
言葉にとらわれてしまって、言葉にはならないような微妙 な感覚を失うおそれがある。
お腹のふくらみにしても、「ふくらみ」という言葉で はとらえきれないような微妙な感覚なり動きのほうが、よりリアルな感覚だと思う
んです。
そういう感覚に気づいていくのがサティだと思うんですが。
おそらく、マハーシ式の場合、言葉以前のリアルな感覚に気づくことよりも、とに かく感覚をとぎれさせずに長時間持続させることに力点を置いているように思う。
確かに、そのためにはラベリングは有効な手段です。
ラベリングしないヴィパッサナーの本
井上ウィマラ著
●『呼吸による気づきの教え―パーリ原典「アーナーパーナサティ・スッタ」詳解』佼成出版社
●『呼吸を感じるエクササイズ』(岩波アクティブ新書 )
●『心を開く瞑想レッスン』 大法輪閣
ラリ−・ロ−ゼンバ−グ著/井上ウィマラ訳
●『呼吸による癒し―実践ヴィパッサナー瞑想』 春秋社
スティーブン・レヴァイン著
●『めざめて生き、めざめて死ぬ』春秋社
ハート,ウィリアム著
●『ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門―豊かな人生の技法』 春秋社
アリンナ・ワイスマン著
●『やさしいヴィパッサナー瞑想入門』春秋社
京都のゴエンカセンターへ行ったら、10日間コースの内 最初の3日間はアナパナだったよ。
アナパナ(呼吸を観察する瞑想)が 無難でいいんじゃないかな。
↓
アナパタ(呼吸を観察する瞑想)って、 座ってするヴィパッサナー瞑想とは又違うのでしょうか? お腹がふくらんだ、へっこんだ、は、ここで言う呼吸とも又違うのかな? ↓
座ってやる瞑想はアナパナですよ。
ゴエンカさんのところでは、アナパナをサマタ瞑想に位置づけて いたということでしょう。
アナパナはサマタにもウィパサナにもなると思う。
やり方次第だね。
40種類のサマタ瞑想、私も気になってたんですが、 一日瞑想くらいではほとんど説明してもらえる機会がないですよね。
その辺りが詳しく載ってる本ってないのでしょうか。
↓
「アビダンマッタ・サンガハ」っていう本に「40種類のサマタ瞑想」について概略が 書かれています。
でもねぇ、これ日本語の本なんですけど、通読はできないなぁw
私は自分の不快な状態をサティ・ラベリングで対象化することで、 不快な状態はかなり消えますけどね、本当に。
不快、苦を対象化するんだよ。
そうするとなんか他人事みたいな感じが するんだよ、マジで。
他人(他人事)に対しても無関心なのが捨無量心だったな。
嫌だけどやらなきゃならないことがあったら、 まずその対象から生じる感情を観察し客観化して幾分混乱から抜け出せたのなら、 今度は定力をもってその対象に集中して実行していけば、やってる最中は嫌な 感情も忘れてることに気づく。
たぶん、スマナサーラ長老言うところの
「痛い」←×
「痛み」←○
の話なのだと思う。
「痛い」には、言葉の裏に主語(私)が隠れている。
だから、「痛い」とラベリングすると傷に塩を塗りこむことになる。
「痛み」の場合は、客観的になれる。
体からの信号は、体を守るための信号だから観察で「了解」すれば弱まると思う。
養老孟司はスマナサーラ長老との対談で「別に不思議じゃない」と言っていた。
「痒みなどはあきらかに脳からの信号なのだから」とも。
痛みなどをよく観察していれば、痛みにも波があることに気づいて 身をもって無常を実感することになるのでしょう。
ラベリングの存在によって混乱しがちだけど、 ラベリング無しの観察で、知らず知らずのうちに妄想にはまってしまうよりは ラベリングをして観察を忘れないようにしたほうがいいと思う。
観察が習い性となったその時に、ラベリングを卒業すればいいと思う。
「あいつは憎らしい」が、「あうつは憎らしい“と私は思っている”」に変わるのではないでしょうか。
私がそう想っているだけであり、ゆるぎない事実ではないのです。
感覚器官に、例えば夕焼けなどが入力され 次に、それに伴って感情が発生する 次に、その感情を思考がいじる←これがダメなのだと思う。
一次感情はokというか、しょうがない。
それが生きているということ。
ダメなのは、「一次感情をいじることで生まれてくる二次感情」だと思う。
感情を流さないで、掴み、いじりまわすと、その感情は増幅される。
一次感情を引き続き保とうとすることも良くない。
それは今の瞬間を生きていないことになるから。
脳内妄想を生きていることになるから。
・心の底の感情を素直に認めれば、抑圧(心の底の感情のしこり)が解消される。
・認めずいれば、抑圧(心の底の感情のしこり)は解消されない。
・認めたら、次に八正道と照らし合わせる。
どう解釈すれば安穏かが示されている。
・もしくは、本来その感情を向けるべき対象に向ける。
イメージでもいい。
手記でもいい。
・無意識層の感情が浮かんできても、否認すれば、抑圧(心の底の感情のしこり)はそのまま。
・抑圧があるから、自我を手放せない。
つまり、忘我になれないから。
●抑圧と忘我は同居しない。
お酒を飲んでいるときは忘我だと言っても、それは酔っ払っているだけ。
智慧の世界ではない。
・ご存知のように、自我(我執)の強さと悩み苦しみの強さは比例する。
・抑圧(心の底の感情のしこり)が解消されてから、
「平気で生きられるという悟り」への道が洗練されていくのだと思う。
アーナーパーナー+呼吸のラベリングは瞑想にかなり役に立った
ブッダの瞑想法―ヴィパッサナー瞑想の理論と実践 (地橋 秀雄)
本格的なヴィパッサナー瞑想の実践マニュアルを、独習用テキストとしてまとめ上げた決定版になっている。
「サティ」という気づきの技法が、これほど緻密に、分かりやすく説明されているのは驚きに値する。
さらに、ヴィパッサナー瞑想の本義でもある「心の清浄道」の実践マニュアルとして、心の反応パターンを正しく組み替えていく技法の数々が紹介されているのは圧巻である。
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自分を変える気づきの瞑想法―やさしい!楽しい!今すぐできる!図解実践ヴィパッサナー瞑想法(アルボムッレ スマナサーラ)
こころを育てて自分を変えてみませんか?毎日のストレス、悩み、苦しみばかりの日々に疲れていませんか?こころが落ち込むと次々と不幸が押し寄せてきます。
気持ちが明るく元気になれば人生はうまくいきます。
今すぐカンタン、その場で試せる“ヴィパッサナー瞑想法”このとっておきのトレーニングであなたは変われる!なりたい自分になる一番簡単で唯一の方法。
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ミャンマーの瞑想―ウィパッサナー観法(マハーシ長老)
ミャンマーのマハーシ長老(1982年没)により42年にミャンマー語で発表されたものの初の邦訳。
自己を見つめることによって自己清浄と完全な悟りを得る瞑想法である。
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やさしいヴィパッサナー瞑想入門(アリンナ ワイスマン)
西洋人女性瞑想指導者によるヴィパッサナー瞑想の入門書。
厳格にテーラワーダ仏教の伝統式形式に沿ってまとめる。
ダルマの世界、ブッダの教えに導く一冊。
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ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門―豊かな人生の技法(ウィリアム ハート)
ヴィパッサナーは、からだと心の現実を探索するきわめて実践的な瞑想法である。
この瞑想法をおこなえば自分のなかにひそむ問題をさらけだし、それらをすべて解決することができる。
さらに潜在能力をフルに発揮させ、自分の幸福のみならず全人類の幸福のために、その能力を生かすことができるだろう。
永年ミャンマーの仏教徒の間で伝承され、それ自体にはまったく宗教的な色彩がなく、どのような背景を持った人でも受け入れ、実践することができるヴィパッサナー瞑想法を理念から実践法まで解説する。
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